紅の豚|大人の「カッコよさ」を、少年時代に見せてくれた映画

「カッコいい大人とは何か?」

その答えを、少年時代の私はこの映画から教えてもらった。

それが**『紅の豚』**だ。

金曜ロードショーで放送されるたび、「とりあえず観てしまう」そんな映画がいくつかあるが、『紅の豚』は間違いなくその一本である。

ストーリーを細かく覚えていなくてもいい。

セリフを全部思い出せなくてもいい。

それでも、流れ出す音楽と空の色、飛行艇のエンジン音を聞いた瞬間、

**“ああ、これは人生の映画だ”**と身体が思い出してしまう。

少年時代に「大人のカッコよさ」を見られたという幸せ

子どもの頃、大人は「正しく」「真面目」であるべき存在だと思っていた。

でもポルコ・ロッソは違った。

無口で皮肉屋で少し不器用で誇りはあるが、決してそれを声高に語らない

そんな男だった。

彼は「立派な大人」ではない。

しかし**「カッコいい大人」**ではある。

しかもそれは、筋肉や強さや勝利といった分かりやすいカッコよさではない。

戦争を経験し仲間を失い、生き残ってしまったことに負い目を感じながらそれでも空を飛び続けるという、重みのあるカッコよさだ。

少年時代にこの価値観に触れられたことは、今振り返ると本当に幸せなことだったと思う。

マンマユート団という「完璧なユーモア装置」

『紅の豚』の空気を決定づけている要素のひとつが、マンマユート団の存在だ。

彼らは悪役でありながら、どこか憎めず、間抜けで、情がある。

  • 人質の子どもたちに妙に優しい
  • リーダーが妙に面倒見がいい
  • 全体的にチームワークが良い

この**“悪党なのに人間臭い”**描写が、映画全体の温度を絶妙に保っている。

もし彼らが本当に凶悪な海賊だったら、この映画はもっと重く、暗い作品になっていただろう。

しかしマンマユート団がいることで、

  • 笑える
  • 肩の力が抜ける
  • でも物語は軽くなりすぎない

という奇跡的なバランスが成立している。

このユーモアに、子どもの頃に触れられたことも、実はとても贅沢だ。

ポルコの一言一言に滲む、大人のユーモア

ポルコ・ロッソは多くを語らない。

だが、言葉を発するときは必ずユーモアがある。

それは笑いを取りにいくユーモアではない。

自嘲と諦観と誇りが混ざった、大人のユーモアだ。

世界をすべて肯定していない。しかし、完全に否定もしない。だからこそ皮肉になる

この言葉の距離感が、年齢を重ねるほどに沁みてくる。

若い頃は「カッコいいセリフ」だったものが、大人になると「生き方そのもの」に聞こえてくる。

それがポルコの言葉だ。

エンディングで完成する映画体験

そして忘れてはならないのが、エンディング。加藤登紀子の歌声が、すべてを包み込む

「時には昔の話を」

この曲が流れ始めた瞬間、映画は「物語」から「人生の余韻」へと変わる。

派手な終わり方はしない。

すべてを説明もしない。

それでも、

あの世界が続いていくこと。登場人物たちが生きていること。観た側の人生もまた続いていくことを、静かに肯定してくれる。

映画の余韻を味わう時間そのものが、作品の一部

そう感じさせてくれるエンディングは、そう多くない。

金曜ロードショーで放送されたら、結局観てしまう理由

忙しくても、疲れていても、「今日はいいかな」と思っていても。

テレビで『紅の豚』が始まると、気づけばチャンネルを合わせている。

それはきっと、

元気をもらう映画ではない

勇気を押し付ける映画でもない

ただ「生き方」を見せてくれる映画

だからだ。

人生には、答えが出ない時間も、割り切れない感情も、どうしようもない現実もある。

『紅の豚』は、それらを否定しないまま、「それでもいいじゃないか」と言ってくれる。

生き方を見せてくれる映画としての『紅の豚』

『紅の豚』は、成功の物語でも、勝利の物語でもない。それでも確かに、自分なりの誇りを持つこと。そしてかっこ悪さを引き受けること。他人に優しく、世界とは少し距離を取ること

そんな**“生き方”**を静かに提示してくれる。

少年時代にこの映画に出会えたこと。

そして大人になって、またこの映画に戻ってこられること。

その両方を経験できるのは、とても幸せなことだと思う。

だから私は、これからも金曜ロードショーで『紅の豚』が流れたら、きっと何度でも観てしまうのだ。

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