私は「頑張った」けれど、私が「壊してしまった。」
この言葉に、胸が痛くなる人は多いだろう。
『東京ヒゴロ』は、そんな人たちのための漫画だ。
物語の主人公・塩澤は、かつて有名漫画誌の編集者として多くの作家を担当していた。
一流の作家を支え、数々のヒットを世に送り出した過去がある。だが、ある日を境に、彼の人生は少しずつ崩れていく。
どれも彼が「悪かった」わけではない。
それでも気づけば、何もかも自分の手のひらから零れ落ちていた。
私がこの作品を読んで強く感じたのは、**“プロジェクトを失った者の視点”である。
この漫画は、成功者の物語ではない。成功を暗示するような終わりかともしていない。
むしろ、「あれだけ努力したのに、報われなかった人間」**が、そこからどうやって生き直すかを描いている。
そしてその構造が、現場の技術者やプロジェクトマネージャーの人生に驚くほど重なるのだ。
■ 「面白いものを潰した男」という業の深さ
マンガから感じられるのは塩澤は誠実な編集者だった。「優秀な」ではない
だが、彼の担当していた漫画家は、精神的に追い詰められていき、やがて連載は終わる。
原因は明確には語られない。思いのある雑誌を廃刊させたことくらいしか書かれていない。
(おそらく現実ではIKKIという月刊誌に近いのだろう)
だが、読者として感じるのは、「編集者として正しいこと」を積み重ねた結果、作家の魂を削ってしまったということだ。これは、技術者の世界にもある。
納期を守り、品質を担保し、コストを抑える。その全ては正しい行為のはずだ。
だが、いつの間にか現場の“面白さ”を潰してしまうことがある。更に言うなら人も潰してしまう。
仕様を固めすぎたことで、創意工夫の余地がなくなったり、リスク管理に集中しすぎて、挑戦を止めてしまったり。
「正しさの積み重ね」が、創造を人材を(ひいては人生を)台無しにすることがある。
塩澤が抱える罪悪感はまさにそれだ。彼は悪人ではない。
むしろ、編集者として誠実だった。だが、誠実にやるほどに、何か大切なものが失われていく。
「お前がいたから描けなかった」――そう言われた時の痛みは、きっと彼の中で永遠に消えない。
技術者の現場でも、似た言葉を聞く。
「あなたの要求ががしすぎて、限界の設計になった。」
「実績第一の方針で、新しい技術を入れられなかった。」
もちろん、誰も悪くない。
だが、「壊してしまった側」に残る痛みは、塩澤と同じものだ。
■ すべてを失った男の再出発
『東京ヒゴロ』の中に長作という男が出てくる。離婚して独り暮らしをしている。
漫画家として非常に辛い立場にある。
休日には昔馴染みの中華料理屋に行くが、そこも閉店してしまう。
人との縁がひとつ、またひとつ消えていく。
この「喪失」の描写が妙にリアルなのだ。
派手な事件が起きるわけではない。ただ、日常の延長線上で静かに、居場所がなくなっていく。
技術の世界でも、似た感覚を持つ人は多いだろう。
大きなプロジェクトが終わり、解散。
チームはバラバラになり、後任は新しい技術体系で進化していく。
気づけば、自分の居た場所はもう存在しない。
長作にとって中華料理屋は、日常の中の小さな「拠点」だった。
それがなくなった時、彼の中で何かが決定的に終わる。
オレの好きなものはみんな無くなる。
なぜ中華料理屋に行ったのか?なぜこの言葉が出てきたかは是非読んで欲しい。
■ 「閃きが降りてこない」人たちへの共感
『東京ヒゴロ』の中で描かれる漫画家たちは、みな職人だ。
腕も経験もある。だが、閃きが降りてこないと描けない。
これは、まさに創造職の宿命だ。技術者も同じだ。
論理で動く職業のように見えて、実際は「勘」と「ひらめき」に助けられる場面が多い。
机上で完璧に考えた設計よりも、ふとした瞬間の発想がトラブルを解決することがある。
だが、その“降りてくる瞬間”は、コントロールできない。
どれだけ徹夜しても、どれだけ考えても、降りてこない日は降りてこない。
だからこそ、技術者も漫画家も、自分を信じ続けなければならない。
塩澤は、そんな作家たちを見てきた。
そして、自分自身も同じだった。
**「次のアイデアが浮かばない」**という存在。
これほど残酷な立場はない。
だからこそ、彼が彼女らが最後に見せる“もう一度閃く姿”は、創作者全てにとって救いになる。
ユニコーンが現れる瞬間と傘を手に取る瞬間。ここは是非とも本で「手にとって」読んで欲しい。
■ 新しい雑誌を作る──それは「結果」ではなく「場」を作ること
物語の終盤で、塩澤は新しい雑誌を立ち上げる。
それは大ヒットを狙ったものではない。ましてや、過去の名声を取り戻すためでもない。
ただ、もう一度「描きたい人たちが描ける場所」を作るために。
この姿勢こそ、成熟した技術者の境地だと思う。若い頃は「自分が作りたいもの」を作る。
だが年齢を重ねると、「誰かが挑戦できる場を作る」ことがやりがいになる。
“成果を出す”から、“環境を整える”へ。
その変化を自覚できた人間だけが、本当の意味で次の世代へとバトンを渡せる。
塩澤の雑誌づくりは、技術の現場で言えば「新しい標準を定義する」行為に近い。
そこには、派手な達成感はない。むしろ地味で、泥臭く、報われにくい。
だが、後に続く人たちが走りやすいように道を整える。
その姿こそ、プロジェクトの真のリーダーの姿だ。
■ 「失敗の中にこそ価値がある」と気づく瞬間
『東京ヒゴロ』が優れているのは、失敗を美化していない点だ。
塩澤は、自分の過ちをきれいに語らない。
「自分が潰した」ことを認め、逃げず、抱えたまま次に進む。
現実のエンジニアリングでも、同じ構図がある。
設計ミス、進捗遅延、想定外の不具合。
一度の失敗で信用を失うこともある。
だが、その経験をどう咀嚼するかで、次の人生が決まる。
塩澤は、失敗を“糧”ではなく、“一部”として受け入れた。
それが本当の意味での成熟なのだと思う。
失敗を糧に変えるという言葉は耳触りがいいが、実際にはそんな単純ではない。
悔しさや恥ずかしさ、怒りを抱えたまま、それでも次の仕事を始める。
そうした姿勢こそが、「もう一度現場に立つ」人間の誇りだ。
■ 人生の折り返し地点で見える「静かなスタートライン」
塩澤はもう若くない。人生の折り返し地点を過ぎ、体力も気力も衰えを感じる。
それでも、彼は再び何かを始めようとする。
『東京ヒゴロ』のラストには、「新しいスタートライン」が描かれる。
だがそれは、若者のような夢や希望に満ちたものではない。
むしろ、**静かで現実的な“もう一度”**だ。技術者のキャリアでも、同じことが起きる。
かつてのように無茶な徹夜はできない。だが、その代わりに、物事の全体を見渡せるようになる。
自分が直接プレイヤーとして輝くことはなくても、後輩を支え、仕組みを整え、未来に道をつなげる。それは、若い頃の情熱とは違うが、確かに“やりがい”がある。
塩澤はその境地にたどり着く。「結果」ではなく、「過程」に価値を見出すようになる。
そして、失敗を抱えたままでも、再び誰かを信じられるようになる。
その姿に、私は深い感動を覚えた。
■ すべての「潰してしまった人」へ
『東京ヒゴロ』は、成功者のための漫画ではない。
むしろ、何かを壊してしまった人、失敗を背負っている人のための物語だ。
プロジェクトを潰した。
部下を追い詰めた。
家族を失った。
それでも生きていく。
そんな人間にしか描けないリアルがある。
技術者として働いていると、「壊す側」に回ることは避けられない。
設計変更で仲間の努力が無駄になったり、コスト削減で夢を削ったり。
だが、それでも前に進まなければならない。
『東京ヒゴロ』の塩澤が見せてくれるのは、まさにその“進み方”だ。
■ 終わらない敗北の中での希望
この漫画の素晴らしい点は、最後まで「完全な勝利」を描かないことだ。
新しい雑誌がヒットするわけでもない。
過去が報われることもない。
だが、それでも塩澤の表情には、確かな「希望」がある。
それは、“何かを成し遂げた希望”ではない。むしろ、“また何かを始められる希望”だ。
人生の後半戦において、これほど大切な希望はない。
結果が出ないまま終わることは誰にでもある。
だが、終わらせずに、もう一度立ち上がる勇気があるなら、それはもう成功なのだ。
エンジニアリングの現場でも同じだ。失敗したシステムを立て直す。
不完全な設計を再定義する。それらの行為にこそ、人間の尊厳がある。
『東京ヒゴロ』はその尊厳を、静かな筆致で描き切っている。
■ 技術者にこそ読んでほしい理由
『東京ヒゴロ』は、一見すると漫画業界の話だ。
だが本質的には、**「創造を支える人間の物語」**だ。
編集者も、エンジニアも、プロジェクトリーダーも、同じ宿命を持つ。
人の情熱に関わり、形のないものを形にする。
その過程で、必ず誰かを傷つけ、何かを失う。
だが、それでも次を作る。
それが仕事であり、生きるということだ。
『東京ヒゴロ』は、その「業」と「再生」を描いた作品だ。
派手さはないが、読み終わったあと、心のどこかに小さな火が残る。
あの火こそ、もう一度現場に立つ人間の灯火だ。
■ 終章──“スタートラインを作る人”として生きる
塩澤は最後に、満足げな表情で空を見上げる。それは「成功した顔」ではない。
ただ、「もう一度立てた」という、穏やかな達成感だ。技術者として長く現場にいると、この“穏やかな達成感”の価値がわかる。
派手な成果や称賛よりも、「今日も何かを作る場所がある」ことの方が大切になる。『東京ヒゴロ』の世界では、何もかもが終わったようで、何も終わっていない。
それが現実と重なる。
私たちはプロジェクトを終えるたびに、小さく何かを失い、また何かを始める。
その繰り返しの中で、少しずつ「生き方」が変わっていく。この漫画は、その「変化」を丁寧に描いた傑作だ。技術者も編集者も、同じように“スタートラインを作る人”でありたい。
結果を出すことより、次につながる場所を残すこと。
それが、『東京ヒゴロ』が教えてくれる生き方だ。



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