『閃光のハサウェイ』シリーズは、ガンダム作品でありながら、物語というより思想映画に近い。『キルケーの魔女』を観て、改めて強く感じたのは、この作品は人間の感情だけでなく「生きている実感」すら排除しようとしている。
それを最も端的に示しているのが、食事シーンの扱い方だ。
ハサウェイは「ほとんど食べない」
まず気づくのは、
・ハサウェイが食事をする描写が極端に少ない
・食べていても、ほぼ映さない
・「食べる姿」を避けるようなカメラワーク
である。恋人とも食事をしないし、渡された水は人前で飲まない。同僚との食事もなにかに理由をつけて中断する。通常、食事シーンはキャラクターに人間味を与える。
食事シーンを通して会話を弾ませ日常が垣間見えることで人間味を演出する。
しかし本作では、 その役割を意図的に潰している。ハサウェイが「食べる=生きる」ことから距離を取っているように演出されている。他キャラの食事は「不快な咀嚼音」にこだわる。さらに特徴的なのが、キャラクターが食べる時、わざと不快な咀嚼音を強調しているという点だ。
食べる音を徹底的に不愉快に演出する。(ぬちゃ・・くちゃ等々書いていたらきりが無い)
普通なら消すはずの音を、あえて残している。これは単なるリアリズムではない。むしろ逆で、「食べる=生理的行為」を不快なものとして観客に突きつける演出である。
食事=三大欲求=生への執着
食事は、生きること、快楽そして欲求に直結している。つまり、 三大欲求の象徴だ。この作品では、とにかく以下の演出が徹底している。
・思想を語る場面 → 静か
・政治を語る場面 → 重い
・食べる場面 → 不快
という対比が作られている。思想は「高尚」で、生理は「汚い」かのように。これは偶然ではない。ハサウェイはとにかく徹頭徹尾して「生」から逃げている。
ハサウェイは、クェスを守れなかった。さらにチェーンを撃ってしまった。そしてアムロとシャアの戦争を生き残ったという過去を背負っている。
罪の重さと向き合う代わりに、彼は思想へ逃げた。同時に、生きること、食べること、欲望を持つという行為からも距離を取っているように見える。だから、食べない。
とにかく人前で食べようとしない。そして楽しそうに食べない。そのため食事が“場面”として成立しない。せいぜい飴玉を舐める程度だ。
だから「思想だけで生きようとする人間」になっている。裏を返せば思想に逃げている人間になっている。(あるシーンで「仕事を作って逃げている」と言われていたのは、彼の人間性を如実に表している。)
本作のハサウェイは、喜ばないし楽しまない。そして満たされない。代わりに、とにかく語る。思想も仕事も語る。そして自分の正義を背負う(ふりをしている)。そして粛清を指示するという行為だけが残る。つまり彼は、人間であることを放棄して思想の器になっているとも言える。だからこそ、彼自身のキャラクターの小ネタがない。小ネタから生まれる冗談がなく軽さがない。そのため世界が息苦しい。
劇中の咀嚼音は「生の否定」の音である。(メンタル的な原因があるという背景があったとしてもだ)不快な咀嚼音は、単なるリアルではない。
あれは、他者から「お前は今、生きている」「お前は肉を噛んでいる」という事実を無理やり聞かされる音だ。ハサウェイが避けている「生」を、周囲の人間は無自覚にやっている。だからこそ、彼にとっても、観客にとっても、不快になる。
結論:これは“生を捨てた革命者”の物語
『キルケーの魔女』で明確になったのは、この物語は革命の物語ではない。
生きることから逃げ、欲望から逃げ、過去から逃げ、思想だけを拠り所にした人間の記録である。
ハサウェイが食べないのは、忙しいからでも演出の都合でもない。
ではない。生きることを意識しないためである。(生きることを逃避している)
まとめ
『閃光のハサウェイ キルケーの魔女』は、
・感情移入を排除し
・思想だけを語らせ
・人間味を削り
・食事すら不快に描く
という徹底した作りになっている。ハサウェイは、革命家ではなく、英雄でもない。
「生きること」から逃げ続ける青年として描かれている。
その姿は、 かつてのシャアのように思想を掲げて立つ姿ではなく、思想に逃げなければ立っていられない人間に近い。
ハサウェイのラストは変わるのか?という憶測などもあるが、この時代に描かれる以上彼の救済は無いのではというのが個人的な思いだ。
閃光のハサウェイはヒーローの話でも、地球の未来を想って散った男の話でもない。
思想に逃げた男の末路を描く警告の話だ。


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