はじめに 〜その一言に感じる違和感〜
社内で仕様協議や設計打合せをしていると、必ずと言っていいほど出てくる言葉がある。
「そこは電気主任技術者の判断で…」
一見するともっともらしく、責任の所在も明確にしているように聞こえる。
しかし私はこの言葉を聞くたびに、強い違和感を覚えてきた。
それは、この言葉が技術的な議論の終着点として使われていることが多いからだ。
本来なら、
- なぜその仕様なのか
- どんなリスクがあるのか
- どこまでが設計側の責任なのか
を議論すべき場面で、「主任技術者の判断」という一言で話が打ち切られる。
果たしてそれは、本当に健全な姿なのだろうか。
なぜ「電気主任技術者の判断」に逃げてしまうのか
この言葉が多用される背景には、いくつかの構造的な理由がある。
責任を明確にしたくないという心理
仕様を決めるということは、同時に責任を負うということでもある。
設計者やメーカー側が
「ここはこういう設計で問題ありません」と言えば、
万が一の際に説明責任が発生する。
そのリスクを避けるために、 「最終判断は主任技術者」という言い方に逃げてしまう。
これは個人の怠慢というより、組織構造の問題だ。
技術が高度化しすぎている現実
現在の受変電設備や電力設備は、もはや「電験の知識だけ」で把握できる範囲を超えている。
- デジタル保護リレー
- IEC61850
- 通信ネットワーク
- ソフトウェアロジック
- ブラックボックス化した機器
これらをすべて一人の主任技術者が理解し、是非を判断するのは現実的ではない。
にもかかわらず、 「主任技術者なんだから分かるでしょう?」 という前提が、いまだに残っている。
制度の誤解
電気主任技術者は、法律上「保安監督者」であって、 設計責任者ではない。
しかし現場では、
- 保安責任
- 設計妥当性
- 技術判断
- 最終決裁
これらがすべて一括りにされてしまっている。
この誤解が、「主任技術者に投げておけばいい」という空気を生んでいる。
技術が進歩した今、前提はすでに崩れている。ここが最も重要なポイントだ。
今の設備は、
- 高度化
- 専門分化
- ソフトウェア依存
- 海外規格依存
が進み、もはや一人の技術者が全体を把握できる構造ではない。
にもかかわらず、責任構造だけが昔のまま残っている。
これは明らかに歪だ。
メーカーが「安全側で提案する」のはサービスではない
私はここをはっきり言いたい。
メーカーが安全側の設計を提示するのは、善意でもサービスでもない。
本来果たすべき責務である。
なぜなら、
- 設計したのは誰か
- 構成を決めたのは誰か
- 機器の仕様を一番理解しているのは誰か
- それは間違いなくメーカー側だからだ。
主任技術者は、 ・設計の背景
・内部ロジック
・設計上のトレードオフ
をすべて把握できる立場にない。
それなのに、 「判断は主任技術者で」 とするのは、責任の転嫁に近い。
電気主任技術者の本来の役割とは
ここで誤解してほしくないのは、 私は電気主任技術者の責任を否定しているわけではない、ということだ。
主任技術者は、
- 設備の保安を監督する
- 運用上の是非を判断する
- 法令・保安規程に照らして確認する
という、非常に重要な役割を持っている。
しかしそれは、「設計内容をすべて自分で考え、責任を負う」
という意味ではない。
むしろ本来は、「その設計が妥当だと判断できる材料が揃っているかを見る立場」
であるはずだ。
この構造が続くと何が起きるのか
このままの構造を放置すると、確実に次の問題が起きる。
- 主任技術者が責任を恐れて判断を避ける
- 若手が主任技術者を目指さなくなる
- 名義貸しのような形が増える
- 設計の質が下がる
- 事故が起きた時、責任の押し付け合いになる
そして最終的に、
「電気主任技術者が足りない」 「なり手がいない」
という話になる。
だがそれは資格の問題ではなく、構造の問題だ。
おわりに:いま必要なのは役割の再定義
私はこう考えている。
- 設計の責任はメーカーが持つ
- 保安の責任は主任技術者が持つ
- 両者は対等な立場であるべき
「電気主任技術者の判断」という言葉で
思考停止する時代は、もう終わりにしなければならない。
技術が進歩した今だからこそ、 責任の所在も、アップデートされるべきだ。
それが、現場を守り、 技術者を守り、 ひいては設備の安全性を守ることにつながると、私は思っている。
電気主任技術者の仕事と現状の制度の歪さについても記事にしました。お時間ある時にぞうぞ。




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