――思想を失った再構築、それでも“再コンテンツ化”を成し得た奇跡
思想の失われた再構築
『ガンダム ジークアクス』を観終えたとき、私は奇妙な二重の感情に包まれた。一つは、「これはもはやガンダムではない」という喪失感。もう一つは、「それでもガンダムをここまで拡張できた」という驚きである。映画を見ていて「見事!」と言いたくなった。
映像は精密で、現代のアニメ技術の極致にある。旧作へのリスペクトも十分だ。レジェンド声優の交代も見事に説明のつくやり方でやってのけた。見方によってはターンエーガンダム並みの発明だろう。
だが、その中にあった“思想”──人間と戦争、成長と喪失、科学と倫理──は、
かつてのようには語られない。ファーストガンダムが投げかけたのは、戦争を通した人間の内面の解剖だった。しかし『ジークアクス』は、戦争を“装置”としてしか描かない。
ガンダムという思想を語る、魅せるという伝統を失っているのが、本作の出発点であり、最大の特徴でもある。
再利用という方法にある構造的宿命
『ジークアクス』は全体がファーストガンダムの構造を踏襲している。アムロ、シャア、ララァに相当する人物配置、戦闘シークエンス、そして“ニュータイプ的覚醒”の演出。
だがそれらは思想的再定義ではなく、文法的再利用に近い。
まるで古い制御プログラムをAIが最適化し、現代のGPU上で動かすような印象だ。全く話が変わってしまうがマンダロリアンにあった登場人物の再利用のように物語に全く落とし込んでいない。
効率的で、軽く、オタクは気づくが唸りはしない。描きたい絵が先行して「話の必然性」が薄い。
それでも、この“リユース構造”は無意味ではない。
むしろ現代の映像産業においては、文化の保存装置としてのファーストガンダムを再稼働させたとも言える。(ひいては宇宙世紀のガンダム)
思想が失われても、構造そのものが生きている。
それが、ジークアクスという作品の“異様な力”だった。
シャアのキシリアへの左手での敬礼を見た時に、旧作よりも見事と思った。
マチュという観測者──思想を持たない時代の象徴
主人公マチュは女子高生という設定だ。彼女の無軌道な行動、現実逃避、そしてシュウジへの盲信。進路希望にはクラゲ(だったかな・・)を書くという始末。
余裕のない家に生まれた身分としては何やってんだコイツ状態だった。アラフォーの私から見れば、痛々しいほどに空虚だし破滅とまでは行かないまでも、あの時代背景であんな子供がいることが非現実的に思えた。
しかしあの“空虚さ”こそが、今の時代の象徴である。本来ガンダムを見る若者からしたら今の時代の代弁者なのだろう。
SNS的な承認の連鎖、感情の即時消費、思考よりも反応が優先される社会。
マチュは戦争を知らず、思想を持たない。そもそも持ちようがない。
彼女がガンダム世界に存在することで、思想を持たない時代にガンダムを再投影する装置が完成した。つまり彼女は、空虚であるがゆえに“現代的”なのだ。ココ最近の老舗コンテンツの置いてけぼり感は自分が年をとっただけなのだと思い知らされる。
そして今の時代の空虚さを受け止める構造が、今回の“マルチバース的再構築”に繋がっていく。
マルチバースという救済の論理
『ジークアクス』の最大の功績は、ファーストガンダムの神話体系を“マルチバース”として再定義した点にある。この手法は一見アメリカ的であり、
『スパイダーバース』や『エヴァQ』の影響を感じる。だがここで用いられているマルチバースは、単なる並行世界ではなく、幾多あるガンダムの思い出の正史化してくれる宇宙だ。
それぞれのガンダム世界が互いに参照しあい、ファースト、Z、逆襲のシャア、そしてオリジナルの系譜が“同一の母体”から分岐していた可能性を提示する。
思想の深さは失われたかもしれない。
だが、このマルチバース構成によって、ガンダムは“終わりなき物語”として再び流通可能になった。自分の好きな物語がもしかしたら・・の可能性を作ったのはとても大きい。
それは、思想の再生ではなく、コンテンツの再生と復活でもある。基本的に映像化された作品が正史とされているガンダム世界に置いて一つの救いを作ってくれたとも言える。
この大仰な言い方は青春の大半をガンダムに注いだ者にはわかるはずだ。
思想を持たぬ再生――それでも動く理由
思想を語らない作品は、通常なら消費されて終わる。だが『ジークアクス』は、消費されることで“拡散”していく。それは紛れもないジークアクスの技術的成功だ。
マルチバース的設定は、作品間の断絶を接続する。
ファーストを知る世代にも、新規視聴者にも、それぞれが“自分のガンダム”を投影できる。
思想を共有できない時代だからこそ、形式だけが共有される。
『ジークアクス』は、まさにその分岐点に立つ作品だった。
マルチバース化という発想は正にうまく分岐点の橋渡しをしてくれた作品だ。
「再コンテンツ化」という現代的成功
“再コンテンツ化”とは、過去の物語を再利用し、現在のメディア構造の中で再び消費可能にする行為である。『ジークアクス』はまさにそれを完遂した。
かつての思想や倫理は再現されないが、ガンダムという“形式”を今なお収益構造の中に生かした。
見事なまでの技術的勝利だ。思想のない状態でも、ガンダムというブランドは稼働する。
それはもはや文化ではなく、OSである。ファーストガンダムをカーネルとして、あらゆる時代のテーマがアプリケーションとして走る。
『ジークアクス』はその最新パッチだった。
思想は古びても、構造は動く。
それがこの作品の冷たい美しさであり、同時に現代の現実でもある。
なんて素晴らしい発想なんだ。テレビシリーズをアマプラで一気見しながら毎回唸っていた。
否定と肯定の狭間にある“静かな到達点”
私は技術者として、古いシステムを再設計する際、常に「思想を残すか」「構造を残すか」で迷う。大概は思想がつかめず構造を残すにしてしまうが・・・・(結果的に良きにつけ悪きにつけ思想は残る)
『ジークアクス』は、後者を選んだ作品だった。
思想は死んだ。だが構造は動いた。それは新たな構造を創造したと言っていい。
それに思想を語る最筆頭の閃光のハサウェイが控えている・・・・
再利用の美学と、思想なき未来への試行
“再利用”は必ずしも堕落ではない。マンダロリアンを見れば明らかだ。
古い設計図を読み解き、現代の材料で再構築する。それはリユースであり、同時に記憶の継承でもある。『ジークアクス』は、思想を語らずに構造を残した。
だが、その行為自体が、思想的だったのかもしれない。
つまり、“思想を放棄する覚悟”を選んだということだ。
作品としては未熟で、テーマは薄い。マチュがニュータイプについて定義するシーンがあるが唐突で前段も気薄でそこまでカタルシスはなかった。
しかし、形式そのものが問いを内包している。
「思想を失ってもガンダムは動くのか?」
それを実験したという意味で、本作は重要だ。そして見事に動いた。橋渡しもした。ガノタよ。これ以上何を望むのだ。
終章 思想を失いながら、構造を広げた作品
『ガンダム ジークアクス』は、思想の継承には失敗し、形式の拡張には成功した。
ファーストガンダムの精神を更新することはできなかったが、マルチバースという新しい枠組みで、ガンダムという文化そのものを再コンテンツ化することに成功した。
思想を失いながらも、構造を保つ。
問いを持たずとも、形式を回す。
ジークアクスは動力を失った発電機が惰性でなおも、定格性能の回転を続けるような光景だ。
思想の火は消えても、構造の回転が残る。そこから再び、誰かが“新しい電流”を流せばいい。
その誰かは必ず現れる。
私はこの作品をこう総括する。
『ジークアクス』は、思想なきガンダムであり、それでも“ガンダムという思想のプラットフォーム”を守り抜いた作品だった。
そして今の所ハサウェイよりもずっと、ガンダムの理念を守った孝行者である。



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