タランティーノ映画が成立した“余白の時代”

クエンティン・タランティーノの映画は、なぜあれほど自由に暴力を描けたのか。なぜ観客は、撃ち殺し、切り刻み、復讐、流血を、「不謹慎」ではなく「娯楽」として受け取れたのか。

それは、彼が特別に残酷だったからではない。彼の映画が成立したのは、世界に“余白”があったからだと思う。

タランティーノの暴力は「現実」ではなかった

『パルプ・フィクション』『キル・ビル』『イングロリアス・バスターズ』『ジャンゴ 繋がれざる者』これらに共通するのは、

・暴力が誇張されている

・様式美として描かれる

・血が漫画的

・会話が軽妙

・映画史へのオマージュが前面に出る

という点だ。つまりタランティーノの暴力は、現実の殺し、現実の戦争、現実の被害とは、はっきり距離を取った「映画の中の暴力」だった。観客は、「これは現実じゃない」「これは様式だ」「これはジャンル遊びだ」と無意識に理解できた。

この“切り分け”ができる状態こそが、余白だった。

2000年代までの「世界の距離感」

『イングロリアス・バスターズ』(2009年)が作られた時代。

・第二次世界大戦は遠い過去

・ナチスは完全な悪として固定されていた

・戦争は「歴史」の中の出来事

・日常に戦争が侵入していなかった

だから、「ナチを殺してスカッとする映画」は、復讐の寓話、歴史改変のおとぎ話、ブラックジョークとして消費できた。同じことが『ジャンゴ 繋がれざる者』にも言える。

・奴隷制度は過去

・白人至上主義は「否定されるべき歴史」

・観客は安全な場所から見ている

だから、「黒人が白人を殺す復讐譚」は、寓話として成立した。これが世界に血の匂いがまだ薄かった時代だ。

今は「現実が映画を追い越してしまった」

しかし今はどうか。

・戦争がリアルタイムで報道される

・空爆の映像が流れる

・死体の数が日々更新される

・民族や宗教の対立が現在進行形

戦争は、「歴史」ではなく、「今起きていること」になってしまった。この状況で、誰かを殺すことでスカッとするような、敵を絶対悪として描き復讐を痛快に描く映画を作ると、それはもうジャンル映画ではなく現実の延長に見えてしまう。

タランティーノ的な暴力は、「様式」から「現実の模倣」へと意味が変質してしまう。

“作れない”のではなく、“意味が変わる”

今、タランティーノが『イングロリアス・バスターズ』のような映画を新作として出したらどうなるか。

・反戦映画と読む人

・プロパガンダと読む人

・扇動だと感じる人

・不謹慎だと感じる人

が必ず出る。つまり、作れないではなく作ると別の意味になるという状態だ。

かつては、悪を倒す寓話であり、復讐の神話であり、映画的快楽だったものが、今では、現実への比喩になり、特定陣営への暗喩と変質し感情の煽動として読まれてしまう。

これは監督の問題ではない。時代の地面が変わったのだ。

タランティーノ自身も変わり始めている

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、暴力はあるだが主題はノスタルジーであり現実の惨劇(シャロン・テート事件)を映画の中で“起きなかったこと”にするという構造だった。これは『イングロリアス・バスターズ』のヒトラー暗殺と同じ技法だが、より優しく内向きで慰めに近い映画だった。

つまりタランティーノは、「暴力でカタルシスを与える監督」から「暴力をなかったことにする監督」へ、少しずつ移動しているとも言える。

それは、彼自身が「今の世界で、昔と同じことはできない」と感じている証拠かもしれない。

タランティーノ映画が成立した条件

彼の映画が娯楽になった条件は、おそらくこうだ。

・現実の戦争が遠かった

・加害と被害が歴史として整理されていた

・観客が安全圏にいた

・暴力が“現実”と結びつかなかった

この4つが揃った時代。それがタランティーノ映画が成立した“余白の時代”だった。

映画は変わらないが、世界は変わった。タランティーノの映画は変わっていない。

変わったのは、世界の緊張感であり情報が身近になったことで死を近く感じ取り、分断の深さを知ることが出来、暴力のリアルさを体感できるようになったからだ。

だから今、昔のタランティーノ映画を見ると、

・重い

・笑えない

・怖い

・後味が悪い

と感じる。それは作品が悪くなったからではなく、観客が現実を知ってしまったからだ。

おわりに

タランティーノは、「暴力を描いた監督」ではない。

正確には、暴力を“娯楽として処理できる時代”に、それを最大限に使い切った監督だった。

今の世界では、同じ表現は誤解されるし、同じ構図は危険になる。この時代に同じ快楽は成立しないだからこそ、彼の映画は一種の“時代の化石”になりつつある。

それは否定ではなく、むしろ記録だ。

暴力をフィクションとして楽しめた時代が、確かに存在したという証拠として。

タランティーノ映画が成立したのは、世界にまだ余白があった時代だった。

そしてその余白は、今、ほとんど残っていない。

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