置かれた場所で咲く必要はない

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉がある。

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉がある。

環境に対して柔順であり、状況に逆らわず、与えられた役割の中で成果を求めよという教えとして、一定の支持を得ている。

しかしながら、この言葉は、個々の人間が置かれた環境条件の差異を過小評価しているという点において、私は慎重に扱うべき考え方だと考えている。

むしろ危険性さえ感じている。

人間は植物とは異なり、自ら居場所を選択しうる存在である。

日照・土質・水分といった外的条件を変えることのできない植物に比べて、我々は環境要因を能動的に調整する手段を持つ。

したがって「与えられた環境で咲けないことが劣っている」という価値観が前提として据えられる場合、それは人間の主体性を廃棄する考えに近い。

転職は敗走ではない。合理的な環境選択である

「転職は逃避である」という表現がしばしば用いられる。

しかし、仕事において成果は 個人の能力 × 環境適合度 によって決まるものである。

環境適合度の低い場で努力を重ねても、その努力は必ずしも成果へと結実しない。

以下のような環境を想定するとよい。

・専門性を活かす余地が極端に乏しい業務配置

・組織構造が硬直し、新規提案が制度的に排除される文化

・人事制度に透明性がなく、成果が評価に反映されない体制

・人間関係が継続的な精神的負荷を強いる状況

・相互理解が無い環境

・極端な不当な評価をする人間が上長

このような場で「咲け」と命じることは、もはや非合理的である。

能力が開花しないのは、個人の素質の問題ではなく、環境の阻害要因による場合が多い。

よって、環境を変えるために職場を移るという判断は合理的であり、恥ずべきことではない。

努力すべきは「忍耐」ではなく「自己に適した環境の選択」である

努力は「耐えること」と同義ではない。

継続・服従・同調を美徳とみなす価値観は、往々にして個人の可能性を摩耗させる。

努力とは本来、以下の問いに対して主体的に向き合う行為である。

・どのような環境で自分は最も成果を出せるのか

・どの文化・思想を持つ組織と自分の価値観は整合するのか

・成長可能性は確保されているか

・人間として尊厳が保たれる場であるか

これらの判断を回避し、現状にとどまり続けることは、むしろ“選択の放棄”と言える。

環境を選ぶことは、逃避ではなく、自己を尊重するための行為である。

咲くべき場所は、自ら選定すべきである

「置かれた場所で咲けない自分が悪い」という結論に至る必要はない。全然ない。

土壌が適さなければ、花は咲かない。

これは自然科学的な事実であり、精神論で覆るものではない。

人間は移動できる。選択できる。改善できる。それが人間だ。

であるならば、咲ける土壌を自らの意思により選び取ることこそが、主体的な生き方である。

まとめ

転職は敗北の証ではなく、環境条件を再設計する行動である。

「現状に適応せよ」と説く言葉が人を傷つける場面は少なくない。

それに対して私は、次の立場を明確に述べたい。

置かれた場所が自らを貶める場であるならば、そこに留まる義務はない。全然ない。

花は、咲くべき土壌で咲けばよい。

そして、その土壌を選ぶ権利は、誰にでも等しく与えられている。

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